夕立について

夏の日のけしきをかへて降る音はあられに似たる夕立の雨

後水尾院

 

今日の15時過ぎ、京都は激しい夕立を迎えました。

ちょうど電車を乗り換えるところだったぼくは、電車とホームの間から容赦なく降り注ぐ雨に肩をぐっしょりと濡らしながら次の電車に乗り込みました。電車がその後地下に潜ったことで夕立の様子はしばらくの間分からなくなり、終点に着いておそるおそる外に出てみると、先ほどの土砂降りが嘘だったかのようにすっかり晴れておりました。

まことに十数分の雨だったようです。

 

冒頭の和歌の話に進みましょう。後水尾上皇のこのシンプルな歌は、あたりの空気を一変させる夕立のありさまが寛永の昔と平成の今とで何ら変わりないことを伺わせます。

寛永年間と変わらずに、本日の夕立も、夏の日を様変わりさせ、霰の当たるような音を立ててぼくが乗る京阪電車の屋根に降り注ぎました。

「ゆふだち」の語は万葉集に遡って確認することができます。千年以上昔の語彙が今もなお通用している——日本語の面白さは、こういったところにもあるのではないでしょうか。

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後水尾上皇wikipediaの画像は1619x1800とやたら大きかったので、Yahoo知恵袋に載っていた出典不明の画像を拝借しました)

 

ところで現在、「夕立」あるいはそれを含む「にわか雨」に代わるものとして急速に台頭してきている言葉に「ゲリラ豪雨」があります。

Yahooリアルタイム検索の結果を見ますと、本日ぼくが遭遇した時間帯に検出されたツイートでは、約1.8倍の開きが確認できます*1。午後七時台に関東であった豪雨の時間帯のツイートではその差はさらに、約3.8倍に広がります*2。 「にわか雨」はあまりにもヒット数が少ないので無視しました。

 

この「ゲリラ豪雨」という言葉は、『新語・流行語大賞』に選ばれた2008年前後から頻繁に用いられるようになった語だそうで、その非常に暴力的な響きがとても印象的です。災害規模に展開する予測不能な集中豪雨に対して、つい使ってしまいたくなる気持ちもよく分かります。

「風流な『夕立』を尊重し、『ゲリラ豪雨』などという下品な新語を廃止するべきだ」などとは申しません。言葉は時代の要請に従って姿を変えるもの。実際に夕方の大雨に迷惑を被っている人々が増えるにつれて、より暴力的な言葉が好まれるようになったという実情がそこにはあるのでしょう。退勤ラッシュを襲ったであろう午後七時の関東圏のツイートにおいて「ゲリラ豪雨」の数が急増していることがその傍証となるのではないでしょうか。

しかしながら、万葉の昔から受け継がれてきた言葉が、現代の価値観が生んだ新語によって徐々に塗りつぶされていく様子には、何か切ないものを感じてしまいますね。

 

記事の初めに挙げた後水尾院は、和歌にとても通じていました。「蜘蛛手」と呼ばれる超人的な技巧を凝らしたパズルのような和歌は、彼の和学への取り組みの熱心さをうかがわせるとともに、紫衣事件徳川幕府にその政治的無力を痛感させられ、全ての力を学芸へと注がざるを得なくなった後水尾院の哀しみをも伝えるのです。

彼と同じく、「夕立」の語もまた、時代の変化の荒波に呑まれて、姿を隠していくのでしょうか。

 

最後に、後水尾院の「蜘蛛手」を紹介してこの記事を終わろうと思います。

それでは本日はこのあたりで。

さようなら。

 

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「蜘蛛手」

引かれた16直線全てが和歌として成立するだけでなく、最大正方形の辺上の格子点を全てつなげて読むと「東照の宮、三十三回忌を弔う歌」というタイトルが出現し、さらに内側格子点に当たる文字はすべて上から下へ読むと「やくしぶつ」になるという技巧が凝らされているそうです。すごいですね。

参考:蜘蛛手の歌 後水尾天皇 : 人生の午後…まっ、ゆるりと 

 

 

*1:7/14 15:00〜15:30期間 「夕立」が1468件に対して「ゲリラ豪雨」が2612件

*2:7/14 18:45〜19:15期間 「夕立」が1321件に対して「ゲリラ豪雨」が4944件